梅雨の合間にウィントン・ケリー

wynton kelly full view
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肌感覚でしかないのだけれど、いまウィントン・ケリーは、以前ほどの人気はないのではないだろうか。CDショップの店頭を見ていても、ケリーのCDが再発されることも発掘音源が発売されることも少ない。

洗練されたケリーのピアノは、かつてオシャレなジャズピアノとして売られていた。「小粋にスウィングする」なんて表現が、ケリーのピアノを評する常套句だった。
それからしばらく経ち、ジャズピアノのメインストリームがバップ系からビル・エヴァンス系に移ったときに、「オシャレ度」という点でケリーの立ち位置は微妙になってしまった。常套句は陳腐化し、マーケティングは道を見失った。

梅雨の合間に、からりとした晴れの日が続く。
そうだケリーの「On A Clear Day」を聴こう。ケリーのピアノは陳腐化などしていない。「晴れた日に永遠が見える」。陳腐化したのはマーケティングなのだ。

過剰反応と思考停止のニッポン

雨が降らない土曜日は高尾山トレーニング。
駅前には早朝から4〜5人のグループでトレランする人が集まっている。コロナというのに、走るのにも徒党を組まないと気が済まないのだろうかと、日本人の集団行動志向に思いを巡らす。

この1年、いろんなルートを歩いてみたので、途中からは人がほとんどいないルートで小仏城山の中間にある一丁平を目指す。

たっぷり汗をかいて一丁平に到着。この季節、ヤマボウシが白い花を咲かせていて美しい。

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次々と感嘆の声を上げて写真を撮っていく年配の登山客たち。
今年も山小屋は完全予約制のところがほとんどだ。山小屋は致し方ないが、テント場まで予約制というのはどうなんだろう。過剰反応ではないだろうか。

ちょっと違うけれど、ポリ袋有料化にも似たものを感じる。
パン屋でパンを買ってレジで「袋は有料になりますが、いかがされますか?」という。パンはそのままカバンには入れられない。

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ケーキを買うと、箱に入れてはくれるものの、「袋は有料になります」というが、箱に取っ手がないので袋を断れば手のひらに載せて運ぶしかない。

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これが当たり前になるのは、おかしなことではないだろうか。パン屋は紙袋を用意すればいいし、ケーキ屋は取っ手のある箱を備えればいいはずだ。ポリ袋有料化に便乗したサービス放棄でしかない。

過剰反応と思考停止はニッポンのお家芸。民主主義が根付かないのは当然だろう。いくら大きな犠牲を払っても変わらないのだから、民主国家でも独裁国家でもない国のかたちを模索したほうがよい気がしてきた。

トランペット・ワンホーンの名作

Eddie Henderson Colors of Manhattan
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近年スモークセッションレーベルから力作を連発しているエディ・ヘンダーソン。マイルスライクの端正でクールなトランペットは品が良い。

これは1990年の作品。当時50歳。ピアノのローラン・ド・ウィルデとの相性が抜群に良く、引き締まった演奏が続く。なかでも、スタンダード曲に挟まれたウェイン・ショーター作の2曲とエリントンの1曲がハイライト。辛口の白ワインのような味わい深い名作。

10年ぶりの再訪

巣ごもりしているのも馬鹿らしくなったので、思い立って有給休暇をとり、温泉に行くことにした。選んだ宿は長野の鹿教湯温泉、三水館。

松本に立ち寄り、お昼ごはんに蕎麦屋を探す。中心部の中町通りから南に入ったところにある「野麦」という人気の店を訪ねてみることにした。

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開店直後の11時半を少し回った時点ですでに満員になっていて店の外で待つことに。
この店、メニューは、ざる蕎麦と酒のみという潔さ。コロナで酒も出せないので、ざる蕎麦のみ。メニューが少ないので回転も早く、ちょっと待っただけで無事入店できた。かみさんと2人で、1人前と大盛を注文。待つこと5〜6分ほどでそばが出てきた。

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戸隠でつくられたという美しいざるに、細切り蕎麦が盛られている。刻み海苔はついていないが、これは間違いなくざる蕎麦だ。見た目どおりにコシがあって美味しい。蕎麦とはこういうものと教えられたような気がした。

食後、三水館へ向かう。
この宿は10年ほど前に、一度訪れたことがある。宿の名物猫、にゃん蔵と一緒に寝るという幸運に恵まれ、食事も美味しかったのだが、当時は喫煙していたこともあって、どことなくストイックな雰囲気を窮屈に感じたことを覚えている。その後、気にはなっていたけれど、いつも予約がいっぱいで再訪することができなかった。

久しぶりに訪ねて、あらためてこの宿の素晴らしさに気付かされた。木曽福島の古民家で使われていた材木を再利用したという建物は、飾り気がなく美しい。建屋内は陰翳に富み、そこかしこに置かれた一輪挿しが映えている。よく手入れされ、古びた印象はまったくない。
印象がかなり違ったのがお風呂。前回訪れたのは冬だったが、今回は初夏。緑に囲まれた露天風呂の気持良さは格別だ。

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料理がまた素晴らしい。野菜と山菜を中心にした料理は、どれも手間がかかっていて丁寧。素材を生かした優しい味だ。この日のメイン料理は破竹の筍を使ったグラタン。バターを使わず菜種油を使っているとのことで、さっぱりした味に仕上げている。
どこにもない、この宿だけの料理は、以前から定評があったが、さらに磨きがかかったような気がした。

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以前窮屈さを感じたのは、オーガニックで禁欲的な空気感に思想性を感じたからで、とりわけ館内に飾られた井崎正浩という木工作家の作品に宗教臭さを感じたことが大きい。何をもってそう感じるのかわからないのだけれど、自分の中にある宗教への拒否感が反応したようだ。
それが今回はあまり気にならない。宿には変わらぬ思想があるけれど、それは自分にとって心地良く感じられた。受容性が高まったのか、自分にとって心地良いものとそうではないものが先鋭化しているのか、よくわからない。確かなのは、10年という歳月で人間は変わるということだ。気づかないのは自分だけかもしれない。

1970年代のフィル・ウッズ

ジャズを聴き始めた頃、アイドルはフィル・ウッズだった。抜群のテクニックとスピード感で情熱的に歌い上げる、その演奏スタイルはパーカー派とはいえ、ブルースとは無縁。ポップでわかりやすかった。

フィル・ウッズは1950年代から2015年に亡くなるまで長く活躍を続けたが、ピークは1970年代だと思う。
この時代のフィルのアルトの音は伸びやかで柔らかい。ヨーロピアンリズムマシーンのハードな演奏から変化したのは、ミッシェル・ルグランとの出会いの影響だろうか。

スティーリー・ダンビリー・ジョエルのアルバムで聴くことができる都会的なアルトサックスの響きは、1970年代という時代そのもののように思える。

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福澤諭吉の心訓七則

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丸屋の店内に掲げられていた福沢諭吉の心訓。どうやら福沢諭吉本人が定めたものではないらしい。福澤が子供らに向けた訓言「ひゞのをしへ 」に基づいて、戦後の高度成長期に何者かが7か条に文章化し、印刷物をつくって販売したものが流布したというのが真相のようだ。
Wikipediaにはそのあたりの経緯とあわせて、「1958年、小泉信三慶應義塾長が馴染みの銀座の料理屋へ自身の揮毫した『福澤心訓』を贈った」との情報も記載されている。

清水義範がこれを題材にして『福沢諭吉は謎だらけ。心訓小説』という小説を書いているようだ。噂や都市伝説が誕生するプロセスを垣間見るようで興味深い。さっそく読んでみよう。

喜多見の名店「丸屋」

美味しくて、価格も高くなく、メニューは豊富で、出てくるのが早い。気どらずアットホームな雰囲気で、きちんとサービスが行き届いている。「丸屋」は文句のつけようがない。

各駅停車しか停まらない小田急線随一の地味な駅、喜多見にその店はある。運動不足を解消するために小田急線まで足を伸ばして散歩しているうちにたまたま入った蕎麦屋が丸屋だった。
蕎麦が美味しくて気に入り、後からネットで調べたら地元の人気店だという。平日の夕方6時ごろに行ったので、すんなり入れたが、週末は行列が出来るらしい。

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どこか懐かしくほっとするのは、創業50年以上という長い歴史が生み出す空気なのだろう。オシャレな内外装だったり名店気取りの蕎麦屋が多いなかで、こういう店に出会えて嬉しく思う。