合理より道理

数年前から家訓に関心を持つようになった。企業の永続性を考えたときに、日本には昔から家訓があるじゃないかと思いはじめたのがきっかけだった。

トヨタをはじめ、さまざまな企業がこぞって「○○ウェイ」を策定しだしたのは、2000年代に入ってからのこと。グループ経営とグローバル化で遠心力が強く働くようになったことが背景にある。
高度成長期のように、どんどん給料が上がり生活が豊かになれば、それだけで会社へのロイヤルティは高くなるし、求心力も生まれる。ところが人件費を抑制しはじめると、そうはいかない。給料を上げずに求心力を高める方法はないか、そんな虫のいい発想から生まれたのが「○○ウェイ」にほかならない。

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米国流のマネジメント手法を輸入するということでは、かつてのCIブームと同じ。そんなものよりも、日本の社会や文化に根ざしている家訓に学んだほうが、よっぽど実りがあるのではないか。米国のマネジメント手法を次々と日本に導入することばかりやっていたから、日本企業はダメになったのではないか。日本人にあったマネジメントをせず、グローバル化の名の下に合理主義で処理していては日本人は決して幸せになれない。そう思うようになった。

齋藤孝『最強の家訓』には北条重時の家訓がいくつか紹介されていて、そのなかに、それぞれの言い分の是非を判断するときに
 全ク親疎ニヨルベカラズ 
 タダ道理ニヨルベキ也
という一節がある。モリカケ疑惑にまみれた元総理を思い出す一節だ。それはともかく、道理とは人としてのあり方という倫理的な要素を多分に含んでいる。
その「道理」という言葉が、現代は「合理」に置き換わったような気がする。その際に、経験に基づく智慧を大切にしなければならないという保守の思想がすっぽり抜け落ちてしまった。

都市の中間層は合理主義的傾向が強い。維新が躍進した背景にはそれがある。しかし、合理主義は保守主義とは相容れない。合理主義者の河野太郎自民党内で嫌われる理由は、本質的にはそのあたりにある。

合理主義は人を幸福にはしない。なぜなら智慧がないからだ。合理主義は不寛容に断罪する。
いま求められているのは「道理主義」ではないだろうか、家訓を学びながらそんなことを思った。

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